阿佐ヶ谷chillout

何もないから寒い

スイス・アーミー・マン

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スイス・アーミー・マン」という映画を観た話をします。本編の内容に触れるので事前情報ゼロで観る予定のある人は心の準備をしてから読んで下さい。





まず先に言っておくと僕はこの映画をすごく軽い気持ちで観た。twitterのRTですごい面白いから観て!みたいなツイートを覚えていて、調べたら公開が今週までなので急いで観ておくか、程度の気持ちで。

映画は主人公のハンク・トンプソンが無人島で一人首を吊ろうとするシーンから始まる。ふと気づくと目の前の一つの屍体が打ち上げられていて、腐敗ガスのせいかオナラが出ている。一度は無視するが、また海に流されそうな屍体に駆け寄ると、腐敗ガスが一気に噴出してハンクはそのまま大海原へ、というところで壮大な音楽に合わせてタイトルが出る。画像のシーンがそうだ。
ちなみになぜ無人島にいたのか、この屍体がどこから来たのか、オナラで海が渡れるのかとか細かい部分はなんら説明されない。そして作中で具体的に説明されない要素は、単なる舞台装置やメタファーとしての意味しか持たない──この場合はなぜ無人島にいたかよりも、「主人公が今にも自殺しそうなほど孤独であった」ことが重要なのだ。

オナラで海を渡った先でまた知らない海岸に漂着するハンクと屍体。名も知らぬ屍体を見捨てられないハンクは、彼を担いだまま目の前の森へと侵入し、洞穴で雨をしのぐうちに急に屍体が喋り出す。メニーと名乗った屍体は口から水を吐き、捨てられていたエロ本を見ると急激に勃起して羅針盤のように行くべき方向を指し示す。死後硬直の始まった腕で反動をつけ木を切り、オナラで火をつける。このメニーの様々な機能を駆使してサバイバルしていく部分こそがこの映画のタイトルで、十得ナイフのことを指すスイス・アーミー・ナイフからスイス・アーミー・マンというタイトルがついている。
だが尺としてはメニーを「使う」シーンよりも、ハンクと会話するシーンに長尺を使う──最初は自分の名前以外何も知らなかったメニーは、ハンクの話を沢山聞くうち、ハンクの心に寄り添っていく。ハンクはメニーに恋のときめきや友達との楽しいシーンを伝えるために、木や廃材を駆使してバスや映画館のセットを作ったり、女装して女役に回ったりする。
だが前述した通りメニーの機能についての根拠はなんら説明されない。そもそも屍体が喋るはずがない。実はメニーは生きていたんですという返しのないようにか、メニーを演じるダニエル・ラドクリフには完全に屍体にしか見えない青白いメイクが塗りたくられている。つまりこれは一人遊びだ。ハンクが孤独を紛らすための盛大な一人遊び。僕はもう、ここから、涙が止まらなくなった。
これは僕だ。

ハンクの生きたいという気持ちの根幹には、自分の携帯の待ち受けにしている女性にもう一度会いたいという想いがあることがメニーとの対話の中で明らかになる。だがその写真はバスの中でこっそり撮影したもので、実際には面識もなければ、声ひとつかけられなかった相手だった。ハンクの一方的な片思いだった、それも道行く人を勝手に恋人に見立てて恋をしてみるというレベルの。母親が早くして死に、人を信じられず恋が苦手になったが、それでも本当は女の子が好きで、恋愛がしたくて、セックスもしたくて──メニーが語る女性への恋慕はそのままハンクの感情でしかない。繰り返すがこれはハンクの死体を使った一人遊びでしかないからだ。ハンクはただメニーに…他人に共感して欲しかった。恋のときめきを、映画の感動を、友達と踊り過ごすパーティの楽しさを。自分自身の感情を、誰かと分かち合いたかった。だって森を抜けるだけなら、屍体なんて置いてまっすぐ歩いていけばいい。これは世間と折り合いのつけられないハンクの、壮大な現実逃避でしかない。

「誰かを一方的に好きでいればたった一人でも生き抜いていける」というのは、完全に僕の行動原理と一致する。生きていくなかで今まで誰かと気持ちが通じ合う瞬間がなかったとは言えないが、今は一人だ。二次元の女の子に恋したり、アズールレーンで誰と結婚するか悩んだり、たまに満員電車で目の前にいる女の子のことを好きになってみたりしながら、声ひとつかけられず、頭の中でだけコミュニケーションがとれさえすれば、とりあえずはいい。Twitterさえうまく使えず何度もアカウントを消した。このブログだって続かない。そう仲が悪くないはずの親とさえうまくメッセージを送り会えない。ネットで見つけた面識のない作者のイラストを待ち受けにしている僕と、ハンクは同じだ。毎日オオタチのぬいぐるみに話しかけながら眠る僕と、メニーとともに踊るハンクの間に違いなんてひとつもない。ハンクとメニーが踊り狂う間、僕はさめざめと泣いていた。後ろの席のカップルは声を殺して笑っていたと思う。

そのあと、森で熊に襲われながらも携帯の電波がついに届き、二人は街へ辿り着く──森を抜けるとそこはハンクが片思いしていた女性の家だった。ハンクは最初から女性のSNSを知っていて、既婚者で、子供がいることもわかっていた。本当にただ一度だけの片思いだった。でも無視はされなかった、満身創痍のハンクは声を発せなかったけど、水をもらい、助けを呼んでもらえた。劇中初めての他者とのコミュニケーションに、ハンクは笑顔になった。
次第に救急車が来て、父親が来て、メニーが身元不明の屍体として収容されそうになって──でも、ハンクはそこでメニーを連れてダッシュで森へ戻っていく。追う警官やニュースキャスター。森の中にはメニーと過ごしたバスや映画のセットがある。ハンクはメニーと過ごすことを選んだ?おそらくそれだけじゃあない。手造りのセットを他者に見せることで、自分自身の孤独を分かち合おうとしたんだ。それがいかに荒唐無稽なものでも、理解されなかったとしても、自分が作り出したものを見せることで。もう胸が締め付けられる。そんなの言うなればこのブログと同じだ。僕も今まで何度も失敗してきたコミュニケーションだ。
そしてメニーを連れて最初の海岸まで戻ってきたハンクは、警察に取り押さえられるが──波打ち際でメニーはオナラを噴出させ、笑顔で海へと進んで行く。全員それを唖然としながら眺めるなか、ハンクだけは笑顔でそれを見送って、現実とも空想ともつかない終わりかたで、この映画は幕を降ろした。

一応本作は日本国内ではコメディか、もしくはアドベンチャーとして扱われるだろう。ハンクとメニーが楽しそうに遊ぶシーンは明るいBGMがついているし、メニーのビックリドッキリギミックの数々がテンポよく進んで行く…なのに、というよりはだからこそ浮き彫りになるハンクの孤独の構造と、荒唐無稽な映像の美しさ、美術の隙のなさにも舌をまく、はずだ。いや正直、僕は当該のシーンを涙でほとんど見えていなかった可能性があるので、ここであまり美術に言及するべきではない(一応他の人の感想で褒めてる人が結構いたからよかったらしいと言うことはできる)。
パンフレットを読んだ限りではこの映画は、ミュージック・ビデオの分野で数々の賞を取った二人のコンビ、ダニエルズ(ダニエル・シャイナートとダニエル・クアンのコンビ)が監督として撮ったものだそうだ。そう聞くと全て納得できる。劇中の音楽の使い方は本当に素晴らしく、歌に始まり歌に終わる構成だし、一番見せるべきとも思えるメニーの機能的なシーンがテンポ良く進行して、映像は一瞬なのに強烈に印象に残るカットとなっている。面白いことが起きているのに泣かされる、最後まで現実か空想かわからない映像だったことも、改めて言われれば腑に落ちる。映像や設定それ自体に意味はない、それ以上に伝わる意味があるから。
この映画を万人に観せたところで本当に僕と同じように刺さる人はほんの一握りだろうし、声高にオススメしたくてこんな文章を書いているわけではない。劇場公開は先週で終わりだし(東京以外ではやっているかもしれない)。ただ、書かずにはいられなかった。今でもラストシーンのメニーの笑顔が焼き付いていて、思い出すと涙が出てくる。パンフレットを開くだけで涙腺が決壊しそうになる。僕はこの映画で、自分自身の孤独に気付かされた。今まで自分の感情は全て自分のものだと信じてきたが、初めて、違うかもと思った。でもこれからどうしたらいいかはわからない。僕には。メニーの存在が、現実か空想かわからない終わり方をしていた。でもハンクは晴れやかな笑顔だった。僕も孤独を分かち合いたい──それが別れで終わるとしても。こんな文章を読んでいても読んでいなくても、僕と誰かとの間に、映画のようにドラマティックな出会いと、映画よりハッピーなエンドがあればいいと、願う。





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